戦前から現代へ。地域企業はどうあるべきか│岡村 充泰│連続インタビュー「価値観と関係性が紡ぎ続ける経済圏」
京都のまちと地域企業のあり方を紐解くインタビュー企画「価値観と関係性が紡ぎ続ける経済圏」。研究者3名と経営者3名に、1000年を超える京都の歴史と未来への姿勢について、お話を伺いました。第5回は、株式会社ウエダ本社(1938年創業) 代表取締役社長 岡村 充泰さんに、高度経済成長期から現在にいたる地域企業のあり方についてお話しいただきます。
モデレーター:一般社団法人リリース 桜井 肖典さん
[目次]
1. 「宇宙を想え、人愛せ」と語った創業者
2. 倒産の危機を乗り越え、社員に伝えたこと
3. 「はたらく総合商社」になろう
4. さいごに
1. 「宇宙を想え、人愛せ」と語った創業者
───これまで5名の方にインタビューをしてきました。最後に岡村さんの話を伺って、これまでもこれからも京都の経済がイノベーティブであるためには何が必要なのか、探っていきたいと思います。
京都の人は、規模や売上だけで企業を見ませんよね。うちの会社は京都ではまだまだ若い部類に入りますが、業界の中では古い会社になってきました。うちよりも規模の大きい会社との取引があっても、一番に始めたことや長続きしていることを理由に、弊社を大切に思ってくださる方が沢山います。
創業者である祖父が文具の卸売を始めたのは、1938(昭和13)年。僕は4代目になります。祖父はセスナ機を飛ばしてのビラまきや大きな回転式の看板など、ずいぶん派手な広報活動をして事業を大きくしていきました。でも、僕が知っているおじいちゃんは、ずっと仕事の話をしている真面目な人でした。そして、「お金の使い方」にこだわる人という印象があります。
1960年代になると、扱う商品が文具から事務機へとシフトしていきます。電卓が登場した頃ですね。電卓といっても、当時は重さが15kg以上あって、値段も80万円くらいしました。すぐに、小売店さんに使い方や販売方法をレクチャーできるように勉強して、取り扱いを始めました。以前、シャープ株式会社の代理店会に行った時に「電子機器事業の黎明期を支えてもらいました」と言っていただいたんです。この時代を知る方は皆さん、会社や祖父のことを褒めてくださいますね。
「宇宙を想え、人愛せ」という社是は、祖父の時代に生まれました。アポロ11号が初めて月面に降り立つより、少し前の話です。実は数年前までは、どうもかっこつけている感じがして、この社是は封印していました。でも、だんだん「宇宙を想え」「人愛せ」という2つの言葉が、腑に落ちてきたんですよね。同時に、あの時代から宇宙に思いを馳せていた祖父を尊敬する気持ちが湧いてきました。
───おじいさんは先見の明をお持ちだったんですね。
時代を先読みする力はあったと思います。業界に広く呼びかけて、アメリカへ約2ヶ月間の視察旅行を主催するなど、業界全体を盛り上げる存在だったようです。小売店のネットワーク作りにも積極的だったので、僕がウエダ本社に戻ってきた時、取引先の方々が祖父の話をよく聞かせてくれました。
2. 倒産の危機を乗り越え、社員に伝えたこと
───その後、1984(昭和59)年に4社に分社化していますね。この頃、どんな変化があったのでしょうか?
父の時代は、業界の構造が変化し、卸売の流通は厳しいルールに縛られていました。メーカーの直接販売も当たり前になった今では、信じられないんですけどね。うちみたいな卸業社が小売店を飛び越えて企業に出入りするなんて、許されませんでした。祖父はこれについても先々を見越して、企業と直接取引をするビジネスを作って、子会社化していたのです。「ウエダ本社」という社名に「本社」と入っているのは、親会社として今でいうホールディングス(持株会社)の役割を担っていたからです。
───1990年代にはバブルが崩壊し、岡村さんが参画された頃にはたいへんな時代だったと思います。
僕が会社に戻ったのは1999(平成11)年でした。もともと、会社を継ぐつもりはなかったので、起業して自分で商売をしていました。最初にウエダ本社を訪れたのは、取引先として商談をするためだったんです。その時に、子会社の代表たちから話があると呼ばれまして……ウエダ本社をつぶして、自分たちの会社を独立させてほしいと言われました。そんな、悲惨な状態からのスタートでしたね。
すぐに非常勤社員として入社して、とにかく経営を改善しようと、ウエダ本社の生き残りを図りました。子会社の代表たちの言葉は、本意ではないと思っていたんです。でも僕の勘違いでした。経営改善が進むにつれ、彼らから反発を受け、さらには父親からもはしごを外されるような出来事があって。もうやってられへんと思いましたよ。苦労してようやく立て直せたのに、大げんかになって。でも、ここで自分が諦めたら、確実に会社はつぶれる。社員もいるし、身内がしたことの結果として今の状況があるし、放って逃げることはできませんでした。
なんとか倒産は避けることができましたが、そこからが本当の勝負ですよね。銀行に再建計画を提出する時に、“その前に、社員にちゃんと話をせなあかんな”とふと立ち止まって考えたんです。会社は、岡村家のものではなく、社員皆のものです。厳しい状況でも誇りを持って働いてもらうには何を伝えるべきなのか……悩んだ末、社内向けの計画書を作ることにしました。今は高いお給料は出せないけど、昔のように地域の人たちから認めてもらえる会社になっていきたい。社員が周りの人から「いい会社で働いているね」と言ってもらえる状況を作りたい。そんな思いで、自分はどんな人間か、どんな会社をつくっていきたいかを何ページにも渡って書き、全員に配りました。「社員の過半数が私以外の人を社長に適任と見なした場合」「3期連続の経常赤字を出した場合」など社長を辞任する条件を書いた「社長の約束」も、この時に作ったものです。
───会社が危機に瀕した原因は、どこにあったとお考えですか。
僕が考える一番の失敗は、親会社であるウエダ本社に利益が集まる仕組みがあったことです。本業の文具卸はずっと赤字だったんです。でも、コンピューター業界に参入した子会社が儲かっていたから、全体としての実態が見えづらくなっていました。市場の変化に応じて複数事業が助け合うこと自体は正しいのですが、創業者が会社を離れた後、親会社と子会社との信頼関係がうまく構築できていなかったんですね。この頃の苦しみは、大きな教訓になっています。
3. 「はたらく総合商社」になろう
───時代と共にオフィスのあり方が変わっていく中で、「はたらく総合商社」になるというビジョンはいつ頃からありましたか。
そういうことは、入社当時から考えていました。経営が苦しくなったのは、世の中に喜んでもらえていないから。そう意識してオフィスの課題を考えた時に、「人が生かされていない」「息苦しい」という感覚があり、働く人の個性を活かす環境を作ろうと思いました。そのためにはオフィスだけでなく、全ての働く環境と、そこで生まれる人の関係性について考える必要があります。といっても、最初は社員にも全く伝わりませんでしたよ。この数年でやっと意識が変わってきたように思います。
自社の経営について考える時も、構想に人を当てはめるようなことはしたくないんです。社員のやりたいことから事業が生まれて会社が拡大するのはいいけれど、拡大ありきで社員を配置することは考えません。取引先の方々だけでなく社員に対しても、win-winの関係は大事にしています。
───ウエダ本社さんは、変化の波に乗りながら、常に新しい事業の種を育てておられますよね。そのために工夫していることなどあれば、教えていただきたいです。
事業や社員を経営層が管理するのではなく、一人ひとりが問いを持って、自分のやりたいことに向かっていけるようにすることです。最近は社員研修をご依頼いただいたり、学校からも教育についてご相談いただくことがあります。根っこにある価値観が同じなので、既存の事業ともどこかでつながると思っています。最初から計画を立てているわけではなく、まずやってみて、動きながらつなげていく。経験することが一番大切なので、社員に対しても失敗はとがめません。アイディアが出てきたら挑戦してもらいます。
時代が変化し、これからは人のつながりがますます大きな価値を生むようになっていくと思います。社員には、社内外の人との関わりから新しい企画が動き出すプロセスを、たくさん経験してほしいですね。信頼というソーシャルキャピタルから価値が生み出される。そのための場や機会を作ることが僕の仕事です。
4. さいごに
───京都で会社をやっていてよかったと思うことはありますか。
京都には、企業の独自性を尊重する経済文化があるので、「わかる人がわかってくれたらいい」という姿勢で事業が成り立ちますよね。規模を追いかける必要がないからこそ、流行や市場全体の動きに左右されず、自社のあり方を貫くことができます。他社の真似をして成長しても、品がないと思われて評価されませんし。京都の地域企業は、今後さらに独自の価値を磨いていくべきだと思います。皆がそれぞれに自社らしいビジネスを考えて、もっとおもしろいまちにしていきたいですね。
文:柴田明(SILK)