江⼾から現代へ。のれんを守り続けた老舗企業│畑 正高│連続インタビュー「価値観と関係性が紡ぎ続ける経済圏」

京都のまちと地域企業のあり方を紐解くインタビュー企画「価値観と関係性が紡ぎ続ける経済圏」。研究者3名と経営者3名に、1000年を超える京都の歴史と未来への姿勢について、お話を伺いました。第4回は、株式会社松栄堂(1705年頃創業) 代表取締役社長 畑 正⾼さんに江戸から明治、そして現在にいたる地域企業のあり方についてお話しいただきます。

モデレーター:一般社団法人リリース 桜井 肖典さん

[目次]
1. 苦難の連続だった300年
2. 世界との信頼関係が事業を支える
3. 新しいお客様と出会う場を創る
4. さいごに

1. 苦難の連続だった300年

───松栄堂さんが創業された1705(宝永2)年頃の歴史を調べてみると、富士山の大噴火や飢饉など、たいへんな時代だったんですね。創業から現代まで、各時代の大きな変化について教えていただければと思います。

今は京都市に家がありますが、南北朝時代(1336〜1392年)まで遡ると、畑家のご先祖様は埼玉のあたりから新田義貞に呼応して上洛し、南朝方として戦いました。南朝が敗北し、その後の世代は丹波篠山に隠れ住んでいたようです。江戸時代(1603〜1868年)になると、徳川幕府が新田系だったおかげで京都に出てこられるようになったんです。一族が徐々に京都へと移り住み、現在はご先祖の位牌も全てこちらにあります。ちなみに、お香の歴史はかなり古く、飛鳥時代(592〜710年)に仏教と共に日本に伝わったとされています。

京都にやって来た畑家の人々は、まず宮仕えをして生活基盤を作り、1705年頃に自分たちで商いを始めました。しかし、商売は決して順風満帆ではありませんでした。特に、幕末から明治維新にかけては苦難の連続です。お香の原材料を海外から調達していたので、鎖国中は長崎での貿易が商売の要だったのですが、船が沈むこともあったようです。同時期に、後継者問題も深刻だったという記録があります。男の子が産まれず、養子をもらっても上手くいかないというような状況が、三代ほど続きました。幕末の動乱で家も焼けてしまい、姻戚関係のあった家から材木をもらって、なんとか復興して……本当にたいへんだったと思います。

───度重なる危機を乗り越えて存続できた理由があるとすれば、なんだと思われますか?

ご先祖様に対する誇りだと思います。「自分の代で絶やすことはできない」「ご先祖様を守らなければ」という思いで、謙虚に家も商売も続けてきたんでしょうね。

その後、1942(昭和17)年に祖父が松栄堂を法人化しました。第二次世界大戦の最中ですね。働き手が戦場へ行ってしまい、原料や設備も統制を受ける中、家業を守るためには法人にしないとだめだという考えが広がっていたようです。つい先日、家の整理をした時に、古い写真や書類がたくさん出てきたんですよ。その中に、祖父、祖母、父と叔父2人が並んだ家族写真がありましてね。ぼろぼろになった額から写真を出してみると、裏に「復員記念 昭和21年 亡き父の墓参の日」と祖父の字で書かれていました。3人の息子が五体満足で戦地から帰ってきて、家族全員でご先祖のお墓参りをして、写真を撮った……それぞれの表情からにじみ出るものがあって、考えさせられましたね。歴史というのは、各時代を生きた一人ひとりが一所懸命に危機を乗り越えてきた、その積み重ねなんだと、改めて思いました。

2. 世界との信頼関係が事業を支える

───改めて、300年という歴史の重みを感じます。戦後、日本は高度経済成長期を迎え、事業のあり方が大きく変化しました。松栄堂さんは、どのように発展していかれたのでしょうか。

戦争が終わり昭和30年代になると、京都から東京へ進出する店が増えました。呉服業界の皆さんが基地にしていたビルに松栄堂も入居させてもらい、四畳半くらいの小さな東京支店を構えました。私が松栄堂に入社したのは、昭和52(1977)年。その前年、銀座店がオープンした年にはイギリスにいまして、父から嬉しい手紙が来たのを覚えています。

その当時は、家業を継ぐ前に銀行や百貨店で修行させてもらうのが一般的だったのですが、私は大学を出た後1年間イギリスへ行って、帰国後すぐに松栄堂の香房で働き始めました。父は悩んだ結果、よそでネクタイを締めて働いてくるよりも、現場でほこりをかぶって製造を学んだ方がいいと考えたようです。

香房には先輩が3人いました。50代が2人と、40代の耳の聞こえない方が1人。その時に感じたのは、「今いる先輩たちが元気なうちに、彼らが認める製品を機械で作れるようにならなあかん」という危機感でした。技術を継承してくれる若い人を何人も採用できるとは思えなかったんです。

───最近はAIやIoTを活用する「インダストリー4.0」が注目されていますが、職人さんの無形の技術を機械で再現する取組は、当時のものづくりにおける大きなイノベーションですよね。

でも、そんなに簡単には実現しませんでしたね。発想から10年かかってようやく、長岡京に工場を作ることができました。工場の前に、まずは亀岡に2ヶ所あった倉庫を長岡京へ移して、1つに統合しました。亀岡での思い出も色々ありますよ。お香の原料は海外から神戸港へ到着し、トラックで倉庫まで運ばれてきます。おおらかな時代でね、トラックが来る日になると皆倉庫へ集合するんです。出前のラーメンを食べて、キャッチボールをしながらトラックが来るのを待っていました。

その頃は在庫管理なんて全くできていなくて、新しいものをどんどん上に積んでいたんです。下の方にある箱はどんどん古くなって、いつ仕入れたのかもわからないような状態でした。耳の穴まで粉だらけになるし、ギックリ腰は男の勲章だったし、倉庫もどうにかせなあかん。それで、フォークリフトの免許を取りに行ったりしてね。会場にいたのは既にフォークリフトを乗りこなしている運送業の人たちばかりで、素人は私たち3人だけ。すごく恥ずかしかったことを覚えています。

───畑さんは、職人さんが作るものと機械が作るものの違いを、どのように捉えておられますか?

今も本社の2階には香房があって、職人たちが竹べらを使って手作業でお香を作っています。工場のものづくりとは全然違うので、そのメリハリがおもしろいですね。品質はどちらも同じだけいいものができます。手仕事の方がいいということはありません。ただ、機械では扱えない原材料もあるので、松栄堂のものづくりにはどちらも大切なんです。品質に関しては、最後はお客さんに判断してもらうしかないですよね。見た目はきれいやけど燃えるのが早すぎるとか、シャープすぎて使い心地がよくないとか、そういう小さな違和感があると生活の中には取り入れてもらえません。

───平成2年には、アメリカに法人を設立されていますよね。海外への進出はどのように決断されたのでしょうか?

日本経済全体が、積極的に海外へ出ていった時代でしたね。私たちの仕事は日本の伝統産業ですが、原材料は全て、香港やベトナムなど海外から調達しています。アジアの国々でとれる植物などの原料がないと、何もできません。なので、世界と共に事業を営んでいるという意識は常にあります。私も現地を訪れて、どんな花が咲いて、どんな人たちが収穫してくれているのか、熱帯雨林や町を歩いて自分の目で確かめています。

国や生産地によって、自然環境も、宗教観や生活文化も千差万別です。その中で育まれているものを扱うので、政治情勢や自然環境など様々な社会問題の影響を受けるんですね。だから、何よりも大切なのが現地の人との信頼関係なんです。松栄堂には、災害や事件があってもすぐに連絡をくれたり、必要な分を確保しておいてくれたりする仲間が各地にいます。彼らには、感謝してもしきれません。

3. 新しいお客様と出会う場を創る

───お話を伺って、お香の新しいかたちを提案されたブランド「リスン」も、海外への意識があったから生まれたのではないかと感じました。リスンの立ち上げには、どんな思いがあったのでしょうか。

リスンは、ニュートラルな目を持つ新しいお客様に出会うための挑戦でした。私自身もそうなのですが、消費者が持っている情報というのは必ずしも正しいことばかりではないですよね。すごく断片的だし、先入観や勘違い、誤解も多々あります。でも、お香に関して松栄堂がいくら正しい話をしても、もう知っているつもりでいる消費者の人たちはなかなか聞いてくれません。お香の新しい価値を発信するためには、お香に馴染みのない、新しいお客様に出会わなければいけないと思い、既成概念に影響されない立地に店舗を作ったんです。

リスンでは、商品を手にとった方に「これは何ですか?」と聞かれたら「インセンスです」と答えます。「お香」とは呼ばない。そこから新しい価値が生まれるんです。リスンの店舗に立ち寄ってくださるお客様から聞くお話は、私たちにとって非常に新鮮でした。でも、本店で同じことをしてしまうと、古くからのお客様に違和感を与えてしまいます。どちらのお客様も、私たちがものづくりを続けていくためには大切だと思っています。

───様々な挑戦をしながら長い年月を重ねてこられた中で、ずっと変わらないものがあるとすれば何でしょうか。

品質ですね。歴史の中で受け継がれてきたクオリティは、私たちが弄んでいいものではないと思っています。次の世代にも理解してもらえるように、きちっと扱っていくべきものです。品質が基本としてあって、その上ではじめて、自分たちなりの工夫を加えていけるんです。


4. さいごに

───ありがとうございます。他にも、経営をする上で大切にされていることがあれば、ぜひ教えてください。

社員にはよく、「同じ集まるなら、レベルの高いところで集まろう」と言っています。一人ひとりの限られた時間と体力を使って仕事をするんだから、どうせなら目線を少し上に向けて、失敗してもいいから挑戦してみる。そうやって経験を重ねていきたいと思います。

今の世の中には、機械化によって安く便利になったものも、人がていねいに作った高級なものもあります。どちらが良い悪いという話ではなく、その両方があるから、メリハリのある豊かな生活が楽しめるのではないでしょうか。それぞれの価値を理解した上で生産や消費を行えるように、社会が変わっていかないといけないですよね。

───最後に、京都というまちについて、畑さんのお考えを聞かせていただければと思います。

京都っていったいなんなんだろう、ということはよく考えます。京都は、島国である日本の文化が凝縮された場所です。先人たちは藤原京や平城京、長岡京を経て、水の豊かな京都に平安京を築きました。このまちには、疫病や戦の災禍を洗い流すだけの水の力があります。だから大都市として続いてきたんです。さらに、海が外の世界との間でフィルターの役割を果たしてきました。海というフィルターと先人たちの数々の試みによって、時間をかけて選ばれたものだけが文化となってきました。しかし、現代のIT社会では情報やお金が海を越えて、直接入ってきます。しっかりコントロールしないと、継承してきた文化を守り続けることとはできないでしょう。今の京都人には、その責任があると思います。

文:柴田明(SILK)


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畑 正⾼

畑 正⾼

株式会社松栄堂 代表取締役社長

昭和29年 京都生まれ。大学卒業後、香老舗 松栄堂に入社。平成10年、同社代表取締役社長に就任。香文化普及発展のため国内外での講演・文化活動にも意欲的に取り組む。著書に「香清話」(淡交社)「香三才」(東京書籍)関連書籍として「香千載」(光村推古書院)などがある。